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村松悦基:初対面です。

*サムネイルの写真は誕生日会でもなんでもありません(笑)。声をかけたら集まってくれた愉快な仲間たちです。
こんばんは。松本より引き継ぎました、短距離ブロック1年の村松悦基(むらまつよしき)と申します。
全国的に急に暑くなりました。東京でも本日の最高気温は30度を超え、本格的に真夏日が始まりそうな予感です。そろそろエアコンには本領を発揮してもらいたいところですね。皆様はいかがお過ごしでしょうか。
昨日の部員日記担当であった松本とは、高校一年の時の国体100mで一緒に走っていました。
松本:「俺高一の時の国体、隣で走ったっちゃけど覚えてる?」
村松:「・・・」
こんな感じの会話が彼と交わした一言目だったような気がします。そう、独特な方言をしていますよね。(彼についてのプロフィールは一つ前の部員日記をご覧ください。)ただ問題はそこではなくて。私はあまり記憶力が良くないので、一緒に走っていたことを覚えていませんでした。ですが、どう反応すればいいかわからず気まずい感じに、とはならなかったんです。これが彼のすごいところです。とても自分の感情に素直で、芯を持っています。そんな生き方に憧れますね。松本、本当にごめんやん。今ではよく一緒にご飯を食べに行ったりする仲です。4年間よろしく!
さて、日々同級生が書いている部員日記の自己紹介を読むとなかなか興味深いもので、 意外な一面や実は出身が一緒だったなんてことも。何かのご縁を感じずにはいられません。この部員日記を読んでいただいている方からすれば何度も目にしたテンプレであることかと思いますが、初めての部員日記ですので僭越ながら、自己紹介からさせていただきます。
私は愛知県名古屋市で生まれ、10歳の頃に大阪府茨木市に引っ越しました。さて、この場合出身地はどちらだと言えるでしょうか。ほぼ同じ年月を過ごしているので、出身地と聞かれるといつもどちらにするべきか悩みます。そもそも出身地という言葉の定義が曖昧でして、調べてみると、生まれた地ともありますし、ルーツとなる地域を指すなど解釈は様々なようです。言葉は素敵で、奥深いです。どちらでも濃い時間を過ごしていますが私なりに考えた結果、陸上という自分の大きなアイデンティティの一部であるものが大阪で形成されているので、今では大阪出身であると言っています。そして、こんなどうでもいい些細なことを深掘りして考える。これも私の特徴と言えるでしょう。
私が陸上競技を始めたのは中学生の頃です。今考えるとこの時が分岐点となっていました。最初はサッカー部に入ろうとしていたのです。しかし当時のサッカー部はかなり強く、自分の実力では断念せざるを得ませんでした。そんな時に友達に誘われ、これといった理由はなく入部したのが陸上競技部でした。もともと走ることは得意でしたが、競技スポーツとして”走る”ことに触れた時、とても奥が深いのだと知りました。記憶に深く残っている出来事といえば、初めて10秒台で走った時のことです。11秒0台が何回も続くものの、11秒を切ることができませんでした。初めて10秒台を出した時はバックストレートでの競技だったので、実際にタイムを見ることはできませんでしたが、ホームスタンドで応援してくれていたチームメイトの悲鳴が聞こえたことで確信に変わりました。ほんの0コンマ数秒のために長い年月をかけて掴み取った時の0.01秒ほど価値の大きなものはありません。過酷である反面、その分得られる喜びも大きい。私は陸上競技のそういうところが好きなのだと思います。
このまま語っていては終われないのでここからは省略しながらお話ししたいと思います。中学3年の時に全中やジュニアオリンピックに出場はするものの、輝かしい成績を収めることはできずに中学での陸上生活は終わりました。
高校は京都府の洛南高校に進学しました。文武両道で名の知れる洛南に進学を決意したのは、中学でのこうした悔しい思いからもう一度陸上に向き合い、全国で輝ける選手になりたいと思ったからです。1年目からインターハイで4×100mRに起用していただいたり、国体選手に選んでいただいたりと充実した陸上生活を送っていました。とりわけ国体の100mでは2位という成績を収めることができました。しかし2年目、3年目は怪我に悩まされ、なかなか思うような結果が残せませんでした。詳細は割愛させていただきますが、高校生の夢の舞台であるインターハイに縁がないというのは、自分のためにある言葉なのかというほどまでに残酷でした。
それから現在に至ります。はっきり言って、まだ光は見えていません。高校から大学というステージに変わり、覚悟はしていましたが想像を優に超えてくるほど厳しい世界でした。今まで以上に厳しいものを求められます。とはいえ決して厳しいことばかりではありません。幸いなことに、先輩や同期に恵まれたと感じています。設備的な環境という面はもちろんですが、知識を豊富に持った先輩方やとても愉快な仲間たちがいます。陸上競技というのは競技スポーツです。この競走部では前が見えず不安だった私に”技を競う”ことの楽しさを思い出させてもらいました。本当に感謝です。
日本インカレの決勝の舞台で戦うこと。それがこの四年間の目標です。まだまだ未熟な自分には遠い話かもしれませんが、この競走部と仲間となら困難に直面しても乗り越えられる気がします。これから先、さらなる精進に努めます。
長くなってしまいましたが、最後に私が大切にしている言葉を紹介させてください。
“Try to be a rainbow in someone else's cloud.”
ーMaya Angelou
これは中学3年の時にある先生が私に送ってくれた言葉です。この言葉に出会い陸上競技への向き合い方が変わったことは言うまでもありません。一人の人間として、自分のためだけでなく誰かのためにありたい。怪我で苦しんだ時や諦めそうになった時はこの言葉を思い出して自分を奮い立たせています。トラックのレーンに立った時にいつも思い出す言葉です。謙虚さを忘れずに努力を続けて参ります。
明日の担当は跳躍ブロックの山城碧生となっております。彼はあまりにも忙しすぎます。行き帰りの電車が一緒で話す機会が多いのですが、創造理工学部ということもあり課題に追われて、オールすることもしばしばあるそうで。政治経済学部の比になりません。思わず部員日記を書いている時間はあるのだろうかと思ってしまうほどです。そして、話を聞いていると本当にストイックなんだなということが伝わってきます。そんな中でも競走部と創造理工の活動を両立している姿は、文武両道そのものです。どうかちゃんと寝てください。でも部員日記は書いてください(笑)。明日はよろしくお願いします。
いかがでしたでしょうか。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。拙い文章にもかかわらず、最後までお読みいただきありがとうございました。とても暑くなっておりますので、体調にはくれぐれもお気をつけ下さい。
それでは失礼いたします。